篠山市の人権の歴史を市同教(篠山市人権同和教育研究協議会)の研究班がまとめられました。
その時代時代でのいろんな取り組みが紹介されており、興味深い、まさに命の歴史です。
いくつか紹介します。
◆篠山城石垣石材の鎮魂碑~犠牲者への供養~
篠山城は、1609(慶長14)年、他藩からの人夫を合わせてのべ8万人が築城に従事した。築城石は、栗栖野、当野などから切り出された。大石運搬により田植えができず、植えた田も踏み荒らされたという。厳しい採石作業のなか多くの命が失われたことを偲び、供養塔が残っている。
また、小坂からも切り出されていた。採石作業は命がけの作業で、採石途上で多くの命が失われた。佐仲ダムには「南無阿弥陀仏」と刻まれた鎮魂の石碑が建っている。
◆刑場跡 渡瀬橋河原(岡屋河原)~処刑された人々の冥福を祈って~
篠山藩は譜代大名の筆頭で要職に就いた藩主が多く、そのための出費は莫大なものであった。藩財政は困難を極め、農民からの年貢の取り立てが厳しく、多くの一揆が起こった。
一揆の首謀者や罪人を処刑する刑場は、江戸中期までは、高城山山麓、のちに東は曽地河原、西は渡瀬橋(岡屋)河原に定めた。処刑された人々を弔って、供養塔や地蔵尊が河原の側らに祀られている。
◆「監物橋河原」~大規模一揆集結場所~
1771(明和8)年、前年の大干ばつに対し、藩の減免対策に納得がいかない農民たちが強訴を企て、監物橋河原へ集結した。参集者は3000から4000人にも及び、篠山藩内における江戸期最大規模の一揆となった。
※強訴・・・農民による集団的な直訴行動。年貢減免要求などの闘争形態。
◆柿の木地蔵~住民はいつまでも恩を忘れず~
1621(元和7)年、干ばつで、人々は木の芽や草の根まで食べつくし、餓死者が続出した。しかし、その年は柿が豊作で柿で命をつないだ。藩は、不作につき、柿を年貢の代用として納めるよう命じたが、庄屋重兵衛は飢えや病気で苦しみ、死ぬ人々の思いを受けて強訴を決心し、京都所司代へ訴えた。その結果、柿年貢は取りやめになったが、重兵衛ら9名は、はりつけの刑に処せられた。柿の木の下には重兵衛の供養仏として五輪の塔が祀られている。
◆市原村の清兵衛顕彰碑~義民清兵衛~
今田市原村の清兵衛は、農民の代表として、1800(寛政12)年、篠山藩主青山忠裕に「冬季の酒造出稼ぎを認めてほしい」と、直訴した。
清兵衛・佐七父子は直訴の罪により入牢を余儀なくされた。それは、10年に及んだ。その後、1811(文化8)年に許され、出獄した。
清兵衛の訴えは認められ1802(享和2)年から酒造出稼ぎに対する政策は緩和された。
◆大対勇三郎翁碑~就労保障の先駆者~
酒造出稼ぎの門はすべての人たちに開かれていたわけではなく、被差別部落の人たちには、かたく閉ざされていた。
1956(昭和31)年、西宮酒造会社の杜氏 大対勇三郎が初めて、被差別部落の一人の青年を採用して以後、酒造出稼ぎに対する就労の門戸が開かれた。